「葉(よう)先生」というのは、北京の中日友好医院の女医先生のことです。
ウーが最初にこの病院に入院したときも、私が疲れて熱を出したときも、この先生に診てもらいました。ブーの通っていた日本人学校の校医でもありました。
飾り気がなくて、穏やかで、慈悲深い眼差しの、医者としての誇りと信頼感に溢れた先生でした。日本に留学したこともあって、日本との縁も深いと聞いていました。
「葉」という字は、中国語では「イエ」と読むのですが(「イ」にアクセントがきます)、この先生の名前でその発音を覚えたような気がします。
慣れない外国で病気になることは誰でも不安なものですが、北京にいる限り葉先生がいてくれるから大丈夫、と私は安心していました。
最近たまたま読んだ北京オリンピックの記事に、戦後両親が満州から帰国したとき、自ら望んで中国に残った日本人少女が、後に医者となったという話が載っていました。
そして、その人は、名前を「葉綺」という中国名に変え、つまり中国人になり、中日友好医院で長く診療に携わっていたというところにさしかかったとき、「あ、あの葉先生だ!」と思いました。
日本人の私には流暢な日本語で接してくれましたが、中国名ですし、私はなんの疑問も感じることもなく、中国人の先生として接していました。
北京に長期滞在する日本人のあいだでは知られたことだったのかもしれませんが、私の回りは中国人ばかりだったためか、そういう情報は一切入ってこなかったのです。
そして、12年の歳月を経て、私は、その葉先生が日本人だったことを知ります。
同時に、2004年5月に74歳の若さで亡くなられたということも……
貧しい患者には検査や薬代がかからないよう触診や視診を繰り返したり、SARSの二次感染にも怯まず陣頭指揮を執ったりなど、葉先生の医者としてのあり方は、いまでも若い医師や看護婦のお手本になっているそうです。
喘息ウーが三度も入院して、慣れ親しんだ中日友好医院。
そこでの最初の入院は、たしか滞在3ヶ月目に入った6月初旬。会社の中国人の悪巧みで日本語の通じない中国人病棟に入院させられたのですが、当然のように英語で説明してくれる中国人医師に、中国語のほうがまだましなので、中国語で話してほしいと希望したことが、英語もろくにできない落ちこぼれ外国人認定のようで情けなかったこと。
そして、外国人病棟に移る選択肢もあったものの、特に不便も感じなかったので、この際、中国にどっぶり浸かるのもおもしろいかもしれない、とそのまま中国人病棟にいようと決めたこと。
悪徳中国人の企みを、病室や病院の庭で探り、紐解き、翻弄されまいと必死だったこと。そんなとき、悪い中国人を簡単に識別する方法を、達者な日本語でおしえてくれた中国人インターン生。
看病疲れか、自分も具合を悪くして点滴を受けたこと。点滴を受けながら食べたマックのハンバーガーと少しばかりの不安。
ウーの入院仲間の中国少年たちの忘れられない親切。不器用な私に代わって縫い物をしてくれた、一番年下の少年の気さくで陽気なお母さん。
泊り込みで看病していたとき、夢の中で中国語をしゃべっていた自分がいて、新鮮な驚きを覚えたこと。
いつもくっついてきた幼いフーに、体育の自習をさぼり、わーっと寄ってきた附属看護学校の純で素朴な女の子たち。みんなで大合唱した中国語の歌。
ウーが入院して退院するまでのほんの2週間のあいだに、いつのまにか訪れ、過ぎ去っていた秋。
そのときすでに帰国が決まっていて、ああ、北京の秋は、私を待ってはくれず、こんなふうに足早に去ってしまうんだなという切なさに、冬の到来前に北京を去る自分を重ね合わせていたこと。
思い返してみれば、北京に滞在していた1/6以上の期間行き来し、あるいはそこで過ごした私にとっては、中日友好医院そのものが北京の思い出のひとつでもあり、多くの中国人に触れる機会でもありました。そして、中国人を理解するための貴重な経験がいかに多かったかを、いまになって知ります。
その中日友好医院の象徴だった葉先生。
あのとき出会った陽気で親切なインターン生や溌剌とした看護学校生たちも、きっとその姿に学んだであろう葉先生。
「野崎(イエチー)」という日本名を、同じ発音の「葉綺(イエチー)」という中国名に永遠に刻んだ葉先生。
この記事を読んで、ああ、私の触れた北京は、短くはあったけれど、深いものだったんだな、とあらためて思いました。
そして、温かさやまぶしさとともに、常に切なさが交差している自分の中の北京の映像と記憶に、葉先生との出会いと別れが静かに加わりました。
葉先生。機会があればまた会いたかったな。
2008/06/29